アユについて update: 09May2008 |
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鮎について昔はどう見られてきたのか,また釣りは何時頃から始まったのかという興味から古い本を調べてみました。『 細鱗魚,年魚『日本書紀』。銀口魚『漢語抄』。 日本の鮎は中国ではナマズを指すそうです。 『 鱗は無いとあるけど,実際には小さい鱗があります。 肉は薄くて潔白で生臭くなく味は極めて良い。また頭から背にかけて脂がありその味が最も佳いとあります。鮎はどこでも獲れ,濃・尾州の鮎が上品とされていて紀州ものがこれに次ぐそうだとか。肉は五臓を丈夫にし,筋骨を強くし,諸病に用いて悪いということがない... とあります。 鮨は尾張・美濃のが上品とされ,尾州の鮓は絶勝で,九月には内子鮓がありこれも抜群とあります。紀州では ウルカは瀉痢腹痛を止め,虫を殺し,能く酒毒を解する。あるいは,腸風下血を治すという。『本朝食鑑』より 『大和本草巻之十三』では 鮎釣り 鮎釣りが出てくる書籍では『古事記』*2,『日本書紀卷第九』*3が古いようです。 それによると, 紙幣(政府紙幣を含む)で女性の肖像が採用されたのは神功皇后像が初めてだとか。「明治通宝」の偽造対策として発行された改造紙幣であり一円,五円,十円券の3種類あります。(1881年(明治14年)~1883年(同14年)) http://www.boj.or.jp/type/exp/bn/data/are02m.pdf 神功皇后(生誕地は滋賀県米原市
「宇美」の地名は「産み」に由来するもので安産の神として信仰されています。 八幡宮総本宮は「
…etc。 と細鱗魚からいろんな関係が出てきてしまいました。卑弥呼=神功皇后を想像させるような表現が『日本書紀』にあるけど,これは『魏志倭人伝』などとの整合性から否定されているようです。 「鮎」という字は魚釣りで戦運を占ったところからきたのでしょうか,どうもそんな気がします。 この神功皇后の話はいろんな所で出てきて驚きですがいろんな想像が出来てむしろ面白いですね。 皇后が釣りをされた河は松浦(佐賀県唐津市)の玉島川と考えられ,皇后が登ったとされる石が「御立石」とされ川沿いにあるとか。ただ『東松浦郡史』や『唐津松浦潟』では「紫臺石」とあり,川底に埋まって見えないとされています。 釣竿を埋めたところ竹が生えたという「神功皇后釣竿竹」が「須磨寺」(兵庫県)に,「神功皇后釣竿の竹」が「生田神社」(兵庫県)に,また「玉島神社」(佐賀県)にもあります。 しかし,『東松浦郡史』や『唐津松浦潟』では違った表現となっています。 玉島川の鮎に限り唇金色と言っている様です。 『東松浦郡史』には下記の様にあります。 「金の素針を入れ給ひ鮎を釣り給ふに,忽ちかゝれり,此の素針にて釣り給ひしことは神秘なりとかや,釣竿は攝州播州の堺なる幹竹といふ竹なり,今に生田須磨邊に釣竿竹とてあり,此の金の素鈎にかゝりし因縁にて此の玉島川の鮎にかぎり唇金色なりと謂ひ傳ふ。其の節皇后の上り給ひし石を,紫臺石といふ,今は川底に埋みて見えず,川岸の上に玉島山といふ所あり,則ち皇后の宮を安置し奉り聖母大明神と称し奉るなり。また干珠満珠の山とて二あり,此の山の隣るところに加茂某といふ隠者あり,常に語りていふ,我住所の前に細き土橋あり,溝川なり,前は往還なり,適々大地震と外々騒ぐことあるとき,此の玉島山には地震を知らず,故に此の家に生れたるもの地震を知らずと,其の天理如何と笑談せり,これも御神徳なるべし。」 『唐津松浦潟』では下記の様にあります。 「當時釣竿に用ひ給ひし竹は此の丘上に取りしものにて,今猶其の竹種杜 域内に一叢となつて残ってゐる。又摂州播州の境にある韓竹といへるものも其種顛で,生田,須磨の地方にては釣竿竹として用ひられ てゐるといふ。此の川の鮎の唇金色なるは,金の針を鉤げて鉤となし釣り給ひしによるとか,仲々理屈をつけたものである。 皇后の立ち給ひし石を紫臺石といふ。今は河底に没して見江ず。」
現在,唐津観光協会などでつくる実行委員会が毎年玉島川河川敷で「鮎祭り」が開かれている様です。 玉島川ライブカメラ: http://www.vill.nanayama.saga.jp/camera30.html 玉島川: 6月15日解禁 日券1,000円 年券5,000円(玉島川漁協,七山漁協) この年魚と松浦は『万葉集』でも見られますね。 --- 略 --- 娘等更た 春 松浦川 後人追いて詠める詩三首(都帥老) 松浦川玉島の浦に --- 略 --- 他に,京都の祇園祭では「 友釣り 次に,友釣りに関する記述は『本朝食鑑』にあります。 それによると, 他には,静岡の大井川辺りでは蠅を喜んで食べるということで, 愛媛の大津では細い縄で鮎を引っ掛けて釣るという,これは今のゴロ引きのことなのでしょうか? 少なくとも元禄の頃には現代の釣りに近いやり方で獲っていたことが想像できます。 本屋で偶然見つけた 「垢石翁は私の釣りの先生である。もう十何年前に,私は富士川の *1 * 『箋注倭名類聚抄』巻第八 龍魚部 龍魚類 崔禹食經云,貌似鱒而小,有白皮,無鱗,春生夏長秋衰冬死,故名年魚也, *2 * 『古事記』 亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而,御食其河邊之時,當四月之上旬。爾坐其河中之礒,拔取御裳之糸,以飯粒爲餌,釣其河之年魚。 其河名謂小河,亦其礒名謂勝門比賣也。 故,四月上旬之時,女人拔裳糸,以粒爲餌,釣年魚,至于今不絶也。 *3 * 『日本書紀』卷第九 夏四月壬寅朔甲辰北到火前國松浦縣而進食於玉嶋里小河之側於是皇后勾針爲鈎取粒爲餌抽取裳系爲緡登河中石上而投鈎祈之曰朕西欲求財國若有成事者河魚飮鈎因以舉竿乃獲細鱗魚時皇后曰希見物也 希見此云梅豆邏志 故時人号其處曰梅豆羅國今謂松浦訛焉是以其國女人毎當四月上旬以投鈎河中捕年魚於今不絶唯男夫雖鈎以不能獲魚 関連ページ: 外部リンク: 参考文献:
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